「西の都」とは
日本の西、筑紫の地に栄えた「西の都」。
白村江の戦いののちに築かれた水城や大野城、
「西の都」を訪れる外国使節は、博多湾岸の
「西の都」には文化人や知識人も多く集まりました。唐人とともに漢詩を唱和したり、大宰府長官であった大伴旅人の邸宅で梅の花をめでつつ和歌を披露しあう「梅花宴」を開くなど新たな文化を生み出し、大野城や
盛んな交流により大陸由来の先進文化も集積し、観世音寺では、都や大陸文化の影響を受けた彫像のほか、外国使節を饗宴でもてなす伎楽の面や、菅原道真が漢詩「不出門」で詠んだ梵鐘が現存しています。
このように、「西の都」は、東アジアの先進文化と日本の文化とが行き交う国際交流都市でした。その遺産は、筑紫の地に広く残っています。この地を巡ると、当時の姿に思いを馳せることができます。
魅力を語る
7つの地域
東アジアに華開いた国際交流都市「西の都」。
その壮大なストーリーを伝える文化財は、
福岡県筑紫野市・春日市・大野城市・太宰府市・那珂川市・宇美町、佐賀県基山町の
7つの地域に広がっています。
7つの地域が語る魅力にふれてみませんか?
古の政治・外交・防衛・文化の都 太宰府市
東アジアの交流の拠点であった「西の都」。百済の都にならい築いた城砦を守りとし、唐の都にならい政庁、碁盤目の街区、迎賓館を整え、精美な文様の瓦で飾られました。外国の使節や商人が先進文化・文物をもたらし、大伴旅人や菅原道真ら知識人は新たな文化を発信していました。その遺産をとどめる古都は、国際観光都市として人々を魅了します。
筑紫を潤す悠久の疏水 那珂川市
那珂川から取水し、台地の裾を緩やかに流れ下る人工用水路、裂田溝。養老4年(720年)に成立した『日本書紀』神功皇后紀に登場し、その歴史は古いです。台地を貫く溝の総延長は約5.5kmに及び、「西の都」が成立すると豊かな穀倉地帯はその発展を支え続けました。今なお静かに流れる水辺の風景は、当時の名残をとどめています。